インターフェースがコンテンツの邪魔になるという思想について
僕はiOS7のデザインには否定的です。理由はいくつかありますが、一番の欠点はアフォーダンスが弱い、操作が直感的にわからないということだと考えています。
一方でポジティブな評価があることも知っています。フラットデザインを好む人たちは、インターフェースの装飾を控えればコンテンツに集中できると言っています。
果たして本当にそうなんでしょうか?
確かに、電子書籍を読むときに常にツールバーが表示されていたら邪魔です。でも、メールを読むときやTwitterを見るときには、返信ボタンやRTボタンがないと困ることが容易に想像できます。
思うに、今、僕たちがiPhoneを通して見るほとんどのコンテンツは、なんらかのインタラクションを伴っているんじゃないでしょうか? 例えばウェブ、ゲーム、Facebook、iTunes、これらは全てユーザからの入力を前提にしています。考えてみれば当然、インタラクションこそがアプリを作る動機そのものだからです。
そこで、インターフェースもコンテンツの一部であって、両者を分けるべきではないという仮説が成り立ちます。
例えばiOS7では、背景は彩度の低い色にして、ボタンは彩度の高い文字やアイコンにするというのが基本原則だそうです。色つきの文字なんてものは、コンテンツとして普通にあるものだと思うけれど、どうやって本物のボタンと区別をつけるんでしょうか? 結局、今までと同じように、ボタンには縁取りしたりドロップシャドウを付ける。そういうデザインになってしまうのではないでしょうか。
つまり、「スキューモフィズムは古い」とか言う以前に、インターフェースとコンテンツを分けるという発想自体が古くなってきてるんじゃないかと思うのです。
みんなで操作できるということ
時は21世紀。パーソナルコンピュータは十分に浸透し、人類は次なる進化の方向性としてユビキタスコンピュータを思い描いている。けれども、パーソナルからユビキタスへの間には、価格的な面でまだまだ越えなければならない壁が多い。その橋渡しとなる段階として、目的別コンピューティングの時代が到来する。
例えば、車に搭載されたコンピュータはテレビやステレオ、カーナビなどを搭載して高機能化の兆しを見せている。リビングのAV機器はスマートテレビに集約されるのか、はたまた別のエコシステムが形成されるのか、模索している段階だ。このように、僕たちの身の回りには、今まででいうパソコン相当の機械があふれ始めている。
ここに来て初めて、コンピュータはパーソナルである必然性を失った。「パーソナルコンピュータ」としての役割はスマホやPCに任せて、車やテレビは「みんなのコンピュータ」になれるのではないかという発想が生じた。例えば、従来のテレビではリモコンを持った人が最終的な決定権を握っていたけれど、新時代のテレビでは調整役はコンピュータにまかせればいい。家族全員が操作できる。
もう少し具体的なことを話す。みんなで操作できるというアイディアを実現した例として「お絵かきチャット」がある。Wiiの「みんなで投票チャンネル」もいい実例だ。GitやSVNもみんなで操作できる。Webアプリケーションも、広い意味ではみんなで操作できる。
こうしたアプリケーションによって、人間の活動は本質的に変わる。人と人とのコラボレーションのあり方が変わる。今、一部の人たちが頑張っているデザイン思考やファシリテーションといったものが、日常生活に組み込まれる。リアルのコミュニケーションの限界を超えて、今までにない速度で動き出す。
我が家に朝倉がやってきた
Future Home Controllerというものを買った。これは何かというと、音声でリモコン操作ができる装置だ。例えばこの装置に
「朝倉、電気つけて」
と話しかければ、(うちの蛍光灯はIRリモコンに対応しているので)電気を付けてくれる。
今はまだ朝倉の方から話しかけてくることはないが、そのうちスピーカーを買ってやろうと思う。
スピーカーがあれば声も簡単に出せる。そういうAPIが整備されている。
コンピュータが声を認識したり、声を発生したりすると、それだけで特別なことのように感じる。いや、もちろん技術的にすごいのは事実だけど、それとは別の種類のすごさがある。
Tangible Bitsは、コンピュータに物理世界の模倣をさせたり、物理世界とコンピュータの境界を曖昧にするインターフェースだった。
一方、音声によるインターフェースは、コンピュータにヒトの真似をさせる、ヒトとコンピュータの境界が曖昧になるような感触がある。
それはきっと、人工知能研究者達が目指している方向性なんだと思う。
思えば「シーマン」も「初音ミク」も「Siri」も、有名な音声ソフトウェアはことごとく擬人化されてきた。
「言葉は人間にしかコントロールできないものだ」という思い込みがそうさせるのだろうか。
朝倉は家電を操作するための装置なので、当然、それ以外のことを話しかけても反応はない。そこがあまり面白くないところだ。
「Siri」が流行ったのは、実用的な側面よりむしろ、「愛してるよ」みたいなくだらない問いかけにもきちんと反応してくれるところだったと思う。
そのあたりに、人間と機械との間に横たわる不気味の谷の存在を感じる。
クールすぎる執事は良くない。ちょっとくらいウィットに富んだ執事が欲しい。
コンピュータに「人間らしさ」を求めると、自然とそういう風になっていく。
僕はFHCに対して、高望みしてしまっているだろうか? いや、そうは思わない。
僕は未来を感じるためにFuture Home Controllerを買ったので、こんな風に未来が語れるだけで買って良かったんじゃないだろうか。
とりあえず朝倉にスピーカーを接続しよう。
そして、まずは「人類、宇宙、全ての答え」を教えてやろう。
善処しているとき、人は運を見誤る
対人ゲームにとって、運と実力のバランスは重要だ。完全な実力勝負では、勝敗が事前に分かってしまってつまらないし、完全な運勝負も面白くない。肝心なのは、一見すると実力勝負に見えるのに、実は運が大きいというバランスに仕上げることだ。
例えば麻雀というゲームがある。麻雀では牌を得る度に不要な牌を捨てる。自分にとってベストな判断を繰り返す。すると、ゲームに勝利したとき、自分の判断が正しかったような気がする。実際には配牌も多分に勝敗を決するにもかかわらず、だ。
ドミニオンというゲームも人に善処することを強いる。このゲームでは、毎ターンプレイヤーに回ってきたカードを如何に活用するか、どのカードを購入するか、常に頭を悩まされる。結果的に、自分だけが善処している気分になる。つい、他のプレイヤーも善処していることを忘れてしまう。他のプレイヤーの判断力と自分の判断力の差よりも、運の割合が大きいことに気付かない。
クク21も善処し続けるゲームだ。パズドラも、これは対人ゲームではないが、常に善処させられている感触がある。
砂と吹雪とスカーフ
「風ノ旅ビト」の楽しいところといえば、なんといっても砂ですよね。いや、世間的にはあのふんわりスカーフの方が人気が高いというのは知っていますけれども、あえて僕は砂を推したい。なぜなら、砂こそが、前作「Flowery」と比較して圧倒的にすぐれているところだからです。
「Flowery」は花びらになって宙を舞うゲームでした。この操作感は心地よくて、プレイするだけでスキになってしまう。花びらの浮遊感は「風ノ旅ビト」でもスカーフに触れたときの動きとして受け継がれています。
一方、「風ノ旅ビト」では、あまり心地よくない動きも追加されました。それが「砂」と「吹雪」です。これらがある場所では、プレイヤーの動きは鈍くなるし、吹雪に至っては主人公を吹き飛ばしてしまいます。
「Flowery」ではある意味万能だった自然というモノが、「風ノ旅ビト」では、ときに障壁としてプレイヤーの前に立ちはだかります。どちらがより人間にとってリアルな自然観だと言えますか?
「スカーフ」がポジティブな感覚を、「吹雪」がネガティブな感覚を引き起こす素材であるとすれば、「砂」はポジティブとネガティブを、どちらも内包したものであると言えます。平坦な道や上り坂では、砂は確かに邪魔ですが、下り坂を滑り降りるときはスピードが出て楽しい。
つまり、「風ノ旅ビト」では、3つの質感を対比的に用いることで、自然が持つ複数の側面を端的に描き出しているんです。ふわふわのスカーフ。凍てつく吹雪。どこまで歩いても終わらない砂。夕日に照らされ煌めく砂。
素材の質感に意味を持たせるなんて、とてもインタラクションらしいやり方ではないですか?
言葉のないゲームにおいて、新たな表現の手法として「質感」を見いだしたこと。さらにそれを使って、より多面的に自然を描写したこと。これが「Flowery」よりも「風ノ旅ビト」が勝るポイントです。
要するに砂、なんです。
数十年後、そこには数多の老朽化したウェブが。
最近、昔作ったウェブサイトを久方ぶりに更新していて、今時のウェブとの違いに驚かされている。
横幅800pxで作らざるを得なかったために、今見るととても小さく見える。相互リンクによる横のつながりはめずらしくなり、SNSの友達やフォロー関係がそれに取って代わった。PC専用サイトであるにも関わらず、スマートフォンからのアクセスは4割近い。
結局、コンテンツとしての役割を考えると、新しい環境に対応しなければならないという結論に至った。
今後も新しい端末の登場が予想される中で、それらに対応できないウェブサイトはどんどん老朽化していくんだろうか。メジャーなサイトはともかく、非営利の個人サイトでそういった流行に追従し続けるのは、なかなかつらいものがある。
物理的なメディアであれば、物理的な方法で保存することができた。でもウェブは、データと、サーバと、閲覧端末がセットになってはじめてメディアとなる。端末が変わるとまったく機能しなくなることもある。
スマートフォンでウェブ漫画やウェブ小説を読むのはつらいし、ゲームであればなおさらだ。
それを保存するためには、一体どうしたらいいんだろうか?
最近読んだSF小説に、インターネットが新技術に置き換わるという設定のものがあった。それは非現実的な話だと感じたが、表向きは互換性を維持しながら、裏で次々とマイナーなウェブサイトへの対応を削っていき、最終的に新しいウェブに置き換えることは可能だ。
例えば今、Retinaの登場でピクセルという単位の意味が変わりつつある。これが十分に普及し、cmや%でページを設計することが一般的になったある日、ある人が「互換性を捨てて、pxとデバイスピクセルを一致させよう」と言い出すかもしれない。
ああ、でも、そうか。その頃には著作権が切れて、誰でも移植作業が行える状態になる。その時までに新しいウェブに対応できなかったコンテンツには、さすがになんの価値もないと言えるのか。
どうぶつの森がゲームを変えた
明日がどうぶつの森の最新作の発売日ということなので、今日はどうぶつの森について書こうと思う。僕にとってのどうぶつの森は、ゲームに対する認識を変える一つのきっかけとなったと共に、自分には決して手の届かない孤高の存在でもある。
どうぶつの森は、ゲームとしてみると非常に自由度が高い。決められたゴールは特になく、やりたい部分だけをやりこめばいい。これは多くのオープンワールドゲームに共通する特色だ。
けれどもどうぶつの森に関しては、ユーザは「スローライフ」「コミュニケーション」といったキーワードに惹かれてゲームを購入する。その文脈においては、ユーザには明確なゴールが与えられていると言えるだろう。自由度の高さはファッションとして機能する。自分のイメージする特定のライフスタイルを表現するために、ユーザはどうぶつの森を遊ぶのだ。
どうぶつの森の巧妙な部分は、そのマーケティング戦略だけではない。もう一つ重要なポイントとして、ゲーム内を流れる時間が現実と同じであるということだ。この機能は、いまでこそ多くのゲームに実装されているが、発売当初は斬新なアイディアであったと記憶している。ゲーム内の時間はゲームを遊んでいる間だけ経過するのが当たり前だったのに、どうぶつの森だけは、ずっと放置しているとゴキブリが出たり、村のどうぶつに忘れられたりする。あくまで画面の中の出来事に終始していた他のゲームに対し、どうぶつの森だけは現実と平行して存在していた。
この特徴は、プレイヤーのリアルな生活との親和性が高かった。家族や友人といった現実社会でのコミュニケーションが、どうぶつの森でも平行して展開されていく。また、村に暮らす住人と仲良くなるという行為も、リアリティを持ちはじめた。ソーシャルゲームなどでよく用いられる「友達がプレイしているからやめられない」という感覚を、仮想的に実現してしまった。
仮にどうぶつの森がなかったとして、今日、これほど多くのバーチャルリアリティが、現実を意識するようになっていただろうか?
2001年の当時に、時計機能の特徴をしっかりと認識し、あれほどの完成度の作品を産み出したことに、僕は驚きを感じざるを得ない。